近年、「タイパ(タイムパフォーマンス)」という言葉をよく耳にするようになった。動画は倍速で見て、映画を流しながらソーシャルゲームをする。ゲームは自動周回で放置し、その間にYouTubeを眺める。限られた時間を無駄なく使い切っているように見えるし、実際、そう信じてやっている人がほとんどだろう。
しかし、本当にそうなのだろうか。私は最近、「タイパ」と呼ばれている行動の多くは、時間を節約しているのではなく、むしろ消費を加速させているだけではないかと考えるようになった。同じ一時間に、より多くのコンテンツを詰め込んでいるだけで、得ているものはさほど増えていないのではないか、という疑いである。
その「ながら」は、本当に効率なのか
まず、日常のよくある光景を思い浮かべてほしい。
ゲームを自動周回させながら、YouTubeを倍速で流す。
映画を再生したまま、スマホでSNSをスクロールする。
友人と通話をつなぎながら、別の画面で動画を見る。
タバコを吸いながら、片手でソシャゲのデイリーをこなす。
どれも珍しくないし、これ自体を否定するつもりはまったくない。楽しいなら、それは立派な過ごし方だ。ただ、これらの行動には一つの共通点がある。「消費」と「消費」を重ねているという点だ。
動画も、ゲームも、SNSも、すべては何かを受け取る側の行為、つまり消費である。それを二つ三つ同時に走らせているのだから、一時間で触れられるコンテンツの量は確かに増える。しかし、量が増えたからといって、そこから得られる価値まで増えているとは限らない。私はこれを「タイパ」ではなく、「消費の高速化」と呼ぶ方が正確だと考えている。
倍速で二本、放置で一本。あなたは何を得たのか
少し極端な例で考えてみよう。
YouTubeを2倍速で流し、その裏でソーシャルゲームを自動周回させる。戦闘はスキップ、ストーリーもスキップ、最後にログインボーナスだけ受け取って閉じる。時間にすればおよそ一時間。この一時間で、あなたは動画を一本見終え、ゲームのレベルも一つ上がっている。数字の上では、確かに二つの成果を得たことになる。
ところが、少し時間が経ってから思い返してみると、その動画の内容はほとんど覚えていない。ゲームで何が起きたのかも、正直よく分からない。手元には「見た」「進めた」という事実だけが残り、中身は驚くほど手元に残っていないのだ。
これは、はたしてタイムパフォーマンスと呼べるのだろうか。私にはむしろ、ただ消費を高速で流し込んだだけの時間に思える。やったことは増えたのに、自分の中に積み上がったものは、ほとんどない。
一方で、確かに「効いている」時間の使い方もある
ここで誤解してほしくないのは、二つのことを同時にやるのが常に悪い、という話ではないということだ。世の中には、二つを重ねることでちゃんと効いてくる時間の使い方が確かに存在する。
料理をしながら、興味のある分野の動画を音声として聞く。
掃除をしながら、その日のニュースを耳に入れる。
通勤電車の中で、政治や経済の解説を聞く。
ランニングや筋トレをしながら、投資や時事の話を流す。
先ほどの「消費 × 消費」とは、明らかに性質が違う。ここで土台になっているのは、家事・移動・運動・仕事といった、そもそも生活の中で必要な行動だ。その必要な行動に、情報収集や娯楽をそっと乗せている。生活や健康という価値の上に、もう一つ別の価値を積み増しているとも言える。私はこちらこそ、本来「タイパ」と呼ばれるべきものだと考えている。
面白いことに、農家のお年寄りが「畑仕事をしながら、ラジオに耳を傾ける。」これは立派な「タイパ」になっているのだ。
私はこれを「補完的活動」と呼びたい
この違いを説明するのに、ちょうどいい考え方が経済学にある。「補完財」というものだ。
補完財とは、単独よりも組み合わせたときに価値が高まる財のことをいう。コーヒーと砂糖、車とガソリン、プリンターとインク。どれも片方だけでは十分に力を発揮しないが、二つそろうことで初めて意味を持つ。互いを引き立て合う関係、と言い換えてもいい。
私は、時間の使い方にもこれとまったく同じ関係が成り立つと考えている。運動と情報収集、家事と学習、移動と読書(音声)。これらは互いを邪魔せず、一つの時間から二つの価値を同時に引き出している。この関係を、私は「補完的活動」と呼びたい。
ここで大事なのは、単に「ながら作業をすればいい」という話ではない、という点だ。消費の高速化も、形の上では立派な「ながら」である。両者を分けるのは、組み合わせている行動の中身だ。片方が消費なのか、それとも生産・必要・健康なのか。ここで結果はまるで変わってくる。
動画とゲームは、消費と消費の組み合わせだから、いくら重ねても高速化にしかならない。一方、ランニングと情報収集は、健康と学習の組み合わせだから、時間から新しい価値が生まれる。同じ「二つを同時にやる」でも、消費に消費を足すのか、必要な活動に価値を一つ乗せるのかで、残るものは正反対になる。補完的活動とは、この後者を意識的に選ぶ技術のことだ。
ゲームは「楽しませる競争」から「毎日来てもらう競争」へ
そもそも、なぜこれほど「消費の高速化」がしやすくなったのか。その背景には、コンテンツを作る側の変化がある。とりわけソーシャルゲームは、ここ数年で大きく姿を変えた。
ストーリーはスキップでき、戦闘は自動で進み、キャラの育成すら放置で片づく。毎日ログインすれば報酬、広告を見れば報酬、ミッションをこなせば報酬。プレイの中身を深く味わわせるというより、とにかく毎日触れてもらうことに設計の重心が移っているのだ。
中国では、キャラのレベル上げを他人に代行してもらうサービスまで存在するという。もし本当なら、これは象徴的な話だ。本来、ゲームとは自分の手で遊ぶためのものだったはずが、いつの間にか「レベル99になった」「限定キャラを持っている」という結果だけが欲しくなってしまう。体験そのものより、成果の所有が目的になっている。ゲームの目的が、根っこから変わりつつある。
倍速で見るのに、作品には映画並みを求める矛盾
面白いのは、動画の世界では逆向きの現象が起きていることだ。
視聴する側は、倍速で見て、流し見をして、何かをしながらのながら視聴を当たり前にしている。接し方はどんどん軽くなっている。ところがその一方で、作品に対して求める水準はむしろ上がっているのだ。「映像美が足りない」「作画が甘い」「音楽が弱い」「CGが安っぽい」「ストーリーが薄い」——視聴者の評価は、以前よりずっと厳しくなっている。
つまり、味わう密度は下がっているのに、要求する品質は上がっている。軽く消費しておきながら、作り手には映画並みの完成度を求める。冷静に考えると、なかなか身勝手な話である。
だが裏を返せば、ここには一つの本音が透けて見える。人は、一つひとつを深く味わう時間こそ手放したものの、「中身の濃さ」そのものへの欲求までは捨てていないのだ。倍速で浴びるように消費していても、心のどこかでは、ちゃんと密度のあるものを求め続けている。
それでも、消費の高速化が「悪」なわけではない
ここまで書いておいて何だが、消費の高速化そのものを悪だと断じたいわけではない。ゲームを楽しむのも、映画を観るのも、SNSを眺めるのも、それで一日が少し明るくなるなら、まぎれもない価値だ。そこは否定しようがない。
ただ、忘れてはならないことがある。その時間は、企業によって驚くほど緻密に設計されているということだ。プッシュ通知、連続ログインボーナス、デイリーミッション、おすすめ表示、無限スクロール。行動経済学や心理学、脳科学の知見を総動員して、「もう少しだけ触っていたい」と思わせる仕掛けが、あちこちに埋め込まれている。
私たちは、自分の意思で選んでいるつもりで、その実、「消費を続けるよう促されている」のかもしれない。映画『マトリックス』ほど大げさな話ではないにせよ、自分で選んだはずの時間が、実はよくできた快楽のループの内側にあるのだとしたら。一度立ち止まって眺めてみる価値は、十分にあるはずだ。
消費を二倍にするより、価値を二倍にしてみないか
そこで、最後に一つだけ提案したい。消費を二倍にするのではなく、価値を二倍にしてみないか、ということだ。
ランニングをしながら、気になっていたニュース解説を聞く。
料理をしながら、語学のリスニングを流す。
移動時間に、読みたかった本を音声で聴く。
仕事の準備として、これから会う相手の過去の発言に耳を通す。
どれも、何かを我慢したり、自分に無理を強いたりする話ではない。ただ、同じ一時間から二つ、三つの価値を取り出すための、ささやかな工夫にすぎない。消費に消費を重ねて時間を溶かすのか、それとも必要な行動に価値を一つ乗せて時間を効かせるのか。私は、後者こそが本来の「タイパ」だと思っている。
特にこれからのAI時代は、情報を速く消費した人が勝つ時代ではない。消費を価値へ変換できる人が勝つ時代だ。
📝 編集長メモ
私はランニングをするとき、政治や経済、技術、時にはVTuberの雑談まで幅広く聞いている。目的は暇つぶしではない。取材前に、その人物やテーマについて世の中がどう語っているかを知るためだ。そこで気になった点をメモし、一次情報や公式資料を確認し、実際の取材へ向かう。そして、その内容を記事としてまとめる。ランニングは健康維持であり、情報収集であり、取材準備でもある。一つの行動が、次の行動を支える。これが私の考える「補完的活動」であり、本来のコストパフォーマンスなのではないかと思っている。
💰 編集長の儲け話
「消費」とは、文字どおり「費やして消える」と書く。お金だけではない。時間もまた、使えば戻らない資源だ。だからこそ、消費を倍速にしても、得られるものは意外と増えない。せいぜい「たくさん見た」「たくさん遊んだ」という小さな満足感が残る程度かもしれない。一方で、その時間の一部を生産につながる行動へ変えられたなら、知識、健康、仕事、収入、人とのつながりなど、あとから何度も価値を生む可能性がある。昔の農家が、畑仕事をしながらラジオでニュースを聞いていたように。本当のタイパとは、時間を詰め込むことではない。一つの時間から、いくつの価値を生み出せるか。私は、その視点こそが、これからの時代に必要な「時間の使い方」だと考えている。
※本コーナーは編集長個人の見解です。投資等の最終判断はご自身の責任でお願いいたします。
