AIが、盗まれた——。
米AI企業Anthropic(アンソロピック)が2026年6月、衝撃的な告発を行った。中国のIT大手アリババのAI研究部門「Qwen lab」に関係するオペレーターが、約2万5000件の偽アカウントを使い、AnthropicのAI「Claude(クロード)」と2880万回以上のやり取りを繰り返し、その能力を不正に抽出しようとした、というのだ。Anthropicはこれを「自社に対する過去最大規模の攻撃」と位置づけ、米上院議員やホワイトハウス当局者に書簡を送って対応を求めた。
この手法は「蒸留(ディスティレーション)」と呼ばれる。かつて技術流出といえば、ソースコードや設計図の盗難を指した。だが生成AIの時代に狙われ始めたのは、「AIが持つ知識や回答能力」そのものだ。AI開発競争は、これまでとはまったく異なる局面へ突入しつつある。
そもそも「蒸留」とは何か
蒸留とは、もともとAI開発で広く使われてきた正当な技術である。高性能で大きなAIに大量の質問を投げ、その回答を「教材」として、より小さく軽いAIに学習させる。こうすると、巨大なAIを一から開発する膨大なコストをかけずに、その賢さの一部を小型モデルへ受け継がせることができる。Anthropic自身も、蒸留そのものを否定しているわけではない。
ポイントは、AIが文章を丸暗記するのではない、という点だ。大量の回答を浴びることで、AIは「答えの導き方」「説明の組み立て方」「どこを重視して判断するか」といった“考え方の傾向”を吸収していく。
人間にたとえるなら、優秀な教師の授業を一度受けるのではなく、何万回も受け続け、その教師の口ぐせや解き方の手順、さらには物事の捉え方までそっくり身につけてしまうようなものだ。教科書(データ)を写すのではなく、先生の“頭の中”を写し取る。これが蒸留の本質である。
「攻撃」としての蒸留は、こう行われる
では、正当なはずの蒸留が、なぜ「攻撃」になるのか。鍵は「許可を得ているかどうか」だ。Anthropicが問題視しているのは、利用規約に違反し、競合の商用AIから無断で大量の回答を抜き取って自社モデルの教材にする行為である。具体的には、おおむね次のような手口になる。
(1) 大量の偽アカウントを用意する。
1つのアカウントで何百万回も質問すれば、すぐに不審がられて止められる。そこで今回のケースでは約2万5000件もの不正アカウントが使われたとされる。Anthropicは、検知を逃れるために難読化やプロキシ(接続元を隠す中継)まで使われたと主張している。
(2) 価値ある能力を狙い撃ちで質問する。
雑談を集めても意味はない。狙われたのは、Claudeが得意とするソフトウェアの開発(コーディング)や、複数の手順を自分で計画して実行する「エージェント推論」といった、最も商業価値の高い領域だったという。たとえば「このプログラムのバグを直して」「この目標を達成する手順を考えて実行して」といった高度な指示を、形を変えながら何百万通りも投げ続けるイメージだ。
(3) 集めた回答を“教材”にして、自前のAIを訓練する。
こうして集めた2880万回ぶんの優れた回答を学習データとして流し込めば、自社の安価なAIに、Claudeの“賢さ”の一部を移植できる——という理屈である。莫大な研究開発費を払うことなく、トップ企業の到達点に近道で追いつけてしまう。だからこそ「窃盗」だとAnthropicは訴えている。
初めてではない 「DeepSeek」でも浮上した疑い
こうした蒸留をめぐる警戒は、今回が初めてではない。
Anthropicは2026年2月にも、中国のAI企業DeepSeek(ディープシーク)やMoonshot AI、MiniMaxといった企業が、約2万4000件の偽アカウントを使い1600万回以上のやり取りを行ったとして非難していた。今回のアリババ案件は、アカウント数こそ同規模ながら、やり取りの回数ではわずか44日間でその約2倍に達する。攻撃が一度きりの実験から、継続的・産業的な運用へと近づいていることがうかがえる。
同様の構図は米企業同士でも取り沙汰されてきた。2025年には、OpenAIやMicrosoftが、DeepSeekがOpenAIモデルの出力を大量取得して自社AIの学習に使った可能性を調査していると報じられた。いずれも司法で確定した事実ではないものの、「競合AIの回答を、無断で自分のAIの教材にする」という問題は、すでに世界中で警戒対象になっている。
産業スパイは「設計図」から「知識」へ
これまで技術流出といえば、半導体や航空宇宙、製造技術の設計図や機密資料が標的だった。物理的な「モノ」や、その作り方を記した文書を盗み出すのが産業スパイの典型だった。
ところが生成AIでは、ソースコードを一行も盗まずとも、大量の“対話”を重ねるだけでAIの能力に近づける可能性がある。設計図を盗むのではなく、完成品に話しかけ続けることで、その中身を推し量って再現してしまう。奪われる対象が「設計図」から「知識」「振る舞い」へと変わったのだ。AI時代の産業スパイは、これまでとは全く異なる姿へ変貌し始めている。
ただし、Anthropicにも“返し刀”がある
もっとも、この告発をAnthropic側の主張としてだけ受け取るのは公平ではない。反論や皮肉も投げかけられている。
AIの学習データは、これまで業界全体が「ネット上に公開された文章や画像は学習に使ってよい」という前提で動いてきた。AnthropicやOpenAI、Googleなども、インターネット上の膨大なデータを収集してAIを鍛えてきた経緯がある。実際Anthropic自身、書籍を無断で訓練に使ったとされる著作権訴訟で、巨額の和解金を支払う事態に直面している。
2月の告発の際には、実業家のイーロン・マスク氏が「彼らは、Anthropicが人間のプログラマーから盗んだものを、Anthropicから盗んでいるだけだ」と皮肉る一幕もあった。「どこまでが正当な学習で、どこからが不正な抽出なのか」——その線引きそのものが、いま激しく問われている。今回の一件は、その難問を世界の真ん中に押し出した出来事でもある。
この件で本当に重要なのは、「どちらが悪者か」だけではない。AI企業はこれまで「より賢いAIを作る競争」を続けてきた。だがこれからは、それと並んで「作った賢さをどう守るか」という競争が始まる。守るべき対象が、プログラムやデータから、AIが学習の末に身につけた“知識”そのものへと移っていく——。一方で、Anthropic自身もデータ収集をめぐって訴えられている事実は重い。盗む側と盗まれる側の境界は、思うほど鮮明ではない。新しい技術は、いつも新しい倫理の問いを連れてくる。今まさに、そのルールが書かれている最中なのだ。
マーケット目線で注目したいのは、「AIセキュリティ」市場だ。今回の報道を受け、アリババの米国上場株(ADR)は一時3%超下落し、100ドルを割り込む場面もあった。蒸留疑惑は、企業の評価に直接響く時代に入っている。
AIを作る企業が増えれば増えるほど、その裏側で「AIを守る技術」の需要が膨らむ。大量アクセスの異常検知、API(外部接続)の監視、偽アカウントの判別、AI専用のセキュリティ基盤——こうした“守りの技術”を持つ企業に資金が向かう展開は十分に考えられる。これまでサイバーセキュリティ関連として括られてきた銘柄群が、「AI防衛」という新しい文脈で見直される可能性がある。
AIで稼ぐ企業ばかりが主役ではない。AIを“守る”企業にも、大きな資金が流れ込む時代が始まるかもしれない。金脈は、攻める側だけにあるとは限らない。
※本コーナーは編集長個人の見解です。投資等の最終判断はご自身の責任でお願いいたします。
